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by luxemburg
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九条の会



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憲法を変えていいとき--わかりやすい?「憲法制定権力」
 日本国憲法は最古の憲法?というのが以前「歴史ねつ造主義教科書」に出ていたことがあった。他の国はどんどん改正しているのに、日本は60年以上前のままだから「最古の憲法」と皮肉りたいらしい。
 日本ではたいてい「後ろ暗い」ことをしようとするとき、国民をだまそうとするときには「外国は」とくる。消費税のときもそうだったが、実際には都合のいい部分だけを取り出してだましているに過ぎない。
 さらに、「日本国憲法は永久に一切変えてはならない『不磨の大典』とでもいうのか」という人もいる。これも悲しい言葉で、大日本帝国憲法こそ天皇の支配を未来永劫続けるための「不磨の大典」と言われていたらしく、それが50年ほどで消え去り、ほぼ同時期に農民たちが起草した憲法などが100年の時を超えて輝いている(明治精神史(色川大吉))ことへの悔しさがにじみ出ている。
 多くの人を一時的に、少数の人をずっとだますことはできるが、多くの人をずっとダマシ続けることはできない、という好例が大日本帝国憲法だろう。



◆ 「最上位にルールがある」という観念
 やっと本題に入って、では憲法を変えちゃダメなのか、日本国憲法だって96条に改正規定があるではないか、と思われるかもしれない。
 実は憲法というのはあまりきちんと理解されておらず、国民主権や憲法制定の権力が何であるかもとても難しい。だから簡単に言おう。
 日本では、自分を超える一番上位に神の掟をはじめとするルールがあってそのルールの中で自分たちは存在しているんだ、という観念が薄い。以前、「7つの習慣」というHOW TO本のような本が結構売れて、その中にはもちろんいいことがたくさん書かれているのだが、最上位におくのは「家族」か「カネ」か・・・といろいろ問いが出てくる。そして著者は、最上位におくのはそれらではなく「原則」だという。私はこれを読んで、「あ、これわしらにはちょっと理解できないな」と思った。
 丸山真男先生などの考え方によると、日本では特に支配層にそういうストリクトなところがなくて、おおらかな欲望肯定主義があり、豪快に女遊びをしにいって酔っぱらって天下国家を論ずる「愉快」や「バンカラ」が男の「豪気」ということらしい。
 ただし、西欧からも東洋的なもの(?)に対する一種のあこがれのようなものがあって、テニスコーチの本である「インナーテニス」には、「手首の返しはこう」というような雑念を取り払い、すべての縛りやルールを解き放ち、明鏡止水の自分を得れば、第二の自分が自然に動き始めて、自分の中からわき上がるようなテニスができることが書かれており、これは、「道」にあこがれる西欧の一面を表している。しかし、こと政治に関してこの欲望肯定主義を特にエリート層が振り回すことはテニスのラケットを振り回すのとわけが違うので、彼らには「王道」を認識してもらいたいものである。その意味では、東洋であれ西洋であれ、政治には自分たちを超えるルールがある、という観念が必要である。

◆ 憲法を作るのも日本国民なら守るのも日本国民
 憲法制定権力について書くつもりで、何も解決に近づかなかった、失礼。今度こそ。
 憲法というルールはどうせ「日本人」が作った(憲法制定の権力)んだから「日本人」(現在の民衆の意識)が変えていいんでしょ?という話だった。
 ちょっと待ってくれ、またたとえ話をしよう。

 あなたは、中学生。中間テストに失敗して期末テストでは挽回しなければまずい、と思ったという例で考えよう。
 中間テストが返却され、惨憺たる点数を見たあなたは、机の前に予定表を作って貼る。

 「朝○時起床。朝食までに○時間勉強・・・。夜は夕食後すぐに・・・。etc。」
 立派な予定表ができあがった。これを守れば期末テストは間違いない。

 一日目は予定表以上の勉強をするかもしれない。ところが3日くらい経つと、理由をこじつけては予定表に風穴を開けたくなる。いったん破り始めた既成事実ができるとどんどんぼろぼろにしていく。そうなると目の前に貼ってある予定表自体がだんだんうっとうしくなってくる。

「ええい、破り捨ててしまうか」。

 その時何か声が聞こえるのではないか?「予定表を決めたときの自分は、「自分」ではあるが、現在の自分より上位にある「自分」ではないのか?」という声が。

 確かにちょっときつい予定表だったかもしれない、しかし、その予定表を一応守ってみて、グンと成績が上がって、「小テストで連続90点以上が3回取れれば、夕食後30分休みを自分に与えよう」というのなら、「予定表を決めたときの自分」に恥ずかしくない。しかし、いま予定表を変えようとするのは、この「予定表を決めたときの自分」に恥ずかしくないのか。

 ルールを決めるのは「決断」だった。内申書のことを考えれば、もう二度と過ちを繰り返してはならないというあの中間テストのあとの自分にしかできない決断。それをいまの自分が変えていいのか、本当にいいのか。
 あの時の決断(憲法制定権力)と同じくらいの気持ちになった憲法改正権力が「現実に合わないから変える」と言っているのか、それともあのときの決断をむしろうっとうしいものとして悪魔のささやきに耳を傾けた結果、ルールをずたずたにしてしまおうとしているのか。

 実は「成績を上げるという目標は捨てないよ、でも勉強はしない」こんなルールを作ろうとしているのではないだろうか。一人一人の「自分」が自分の胸に手を当てて考えたとき、国民の過半数があのときの決断を鮮やかに思い出して、新たなルールを決めたいと思うのなら、その時が憲法を変えうるときである。

 日本国憲法は、96条で非常に厳格な改正規定を設けている。あなただって、予定表を作るとき「この予定表を変えていいのは、厳格に1ヶ月間守ってから」とか「小テストで満点を全科目で3回以上とってから」などと決めないか。

 日本国憲法96条は、あのときの決断を私たちに語りかけいるのだ。
 将来、悪魔が君のところに来てささやくだろうと思うよ。だけど、負けちゃダメだ。本当に変えていいときはどんなときか、よく考えて、と。

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by luxemburg | 2007-03-11 08:39
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