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伊吹文部科学相は22日の参院教育基本法特別委員会で、政府の教育基本法改正案が、教育は「不当な支配」に服することはないと規定していることについて「国会で決められた法律と違うことを、特定のグループ、団体が行う場合を『不当な支配』と言っている」と語った。一方、法律や政令、大臣告示などは「国民の意思として決められた」ことから、「不当な支配」にあたることはないとの考えを強調した。 どこかの知事もそうだが、選挙で選ばれた者が教育内容を決める、と思っているらしい。ナチスを選んだらナチスの教えたいように教育を変える、おそらく自分たちの都合のよいような子供を作ることは役得だとでも思っているのだろう。 何のために教育があるのか、という基本から考え直した方がよい。 子供は本来学ぶ権利を持っているとされている、しかし、「どうぞ、学びたければご自由に」といってもすべての子供が教育的な親のもとに生まれるわけではないし、現代のような発達した文明社会においてはどうしても教育が専門家の手と公的な助力が必要だ。 だから国がその責務を負うことになるのだが、国がその仕事をするからといって、子供に対する支配的権能を与えたと勘違いしてはならない(ここまでは最高裁判所も認めるところ)。 確かに法治主義のもとでは、行政機関が国民に一定の義務を課したりするのも国民の同意がある、一種の自己拘束であるといっていえなくはない。だから、若干不合理と思っても道路交通法はみんなで決めたことだからみんなで守ろう、という話になるだろう(ただしこの分野でも警察は自己に「支配的権能」が与えられたと勘違いしているみたいだが)。 しかし、たとえば、「この宗教が国教である」という法律を制定する場合を考えればわかるが、心の問題に立ち入ることはこの考えを採用しても許されない、それが自由主義というものだ。民主主義でも立ち入れない領域があるというのが立憲民主主義である。宗教については、憲法20条などで明確に定めているが、同じく心の問題である教育については憲法自体はそれほど教育の自由の側面を明確にしていない。 教育がそういう行政とは異なることを理解するために憲法を補充するものとして存在する、これが現行教育基本法である。教育基本法が憲法に準ずる性格を有するというのはそういう面からもいえる。 教育は次の世代の市民を作る場である。たとえいま、ナチスの世であっても次の世代はそれに影響を受けずに、何が正しいかを学んで欲しい、いや、今がパラダイスのように理想を実現した国に見えたとしても、子供たちはそのあり方が正しいと押しつけられてはならない。 この自由主義、ということがわからないような文部大臣を育ててしまったこの国を恥じるべきだ。 ただ単にわからないだけではない、本来「保守」であるはずの党ならば、民主主義の行き過ぎを警戒し、一時的な多数者意思が国政を蹂躙することを許さない、その一時的な感情を伝統の立場から冷まそうとするのが、慎重な「保守」のありようである。しかし、目先の危機を演出し、世論をあおって不安に陥れ、新興宗教まがいの勧誘でまるで解決があるかのように逆の処方箋を用意する。これは保守ではなく、ファシストであり、教祖であり、オレオレ詐欺師のやり口だ。
by luxemburg
| 2006-11-23 10:28
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