とりあえず、のブログです
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前の回では、政治を考えるにあたって国家からスタートすることなく個人からスタートすべきだ、国家は個人という宝石を入れる容器の一種にすぎないんだ、ということを書いた。
それって、結局憲法13条の「個人の尊厳」原理を説明したにすぎず、ただの護憲派じゃない、といわれればそれまでだ。しかし、「ただの護憲派」というなかれ。憲法自身がいまの日本の政治のレベルよりはるかに高いところにある。だから、憲法を守れ、というのは前に書いたが、日本の社会レベルを相当引きあげないとできないことだ。ばかばかしいと思う方は、今から下に書かれていることが、どの程度常識であるか判断してほしい。そして、「これくらいなら中学、高校の社会で当然習った、常識だ」といえるかどうか考えてみてもらいたい。 国会議員ですらこういうことが理解できていない人の方が多いと思う。そういえばむかし佐川急便問題で捕まった金丸さんは忙しくて憲法など読んだことがないといいながら麻雀ばかりやっていたそうだが、まあそんなものだろう。その金丸さんが「この程度の国民にはこの程度の政府」というのだから、直感的に日本人全体がどうせ現行憲法のような高みにまで達することはないと知っていたのだろう。 社会のレベルを憲法レベルまで上げる、護憲というのは現状不変更ではない。とてつもなく高い理想だ。 憲法の予定する政治では憲法がうつわをどのように考えているか、ちょっとだけ書いてみる。 前半は権利の章典個人という宝石の重要性を規定するため、憲法は前半に権利の章典をおいている。何度も書いているとおり、近代国家の器は絶対王政あたりで出来た。最初は、国王の権力は神から与えられたものだ、などと偉そうなことをいっていたが、市民たちは、当然そんなことに納得せず、元々我々が生まれながらにもっている人権を守るために国家と我々は契約をした、そういう存在として国家をとらえた。もし契約を守らないなら、クビをすげ替えるぞ、という考えで市民革命が起こった。その時に、生まれながらに持っている人権を確認するため人権宣言が出され、その人権宣言が、近代の憲法の最重要部分となった。 だから、憲法の人権の章(第三章)について、「権利ばかりで義務がない」というやつはアホだ、人権宣言である以上権利しか書いていなくて当たり前なんだから。 ところが、権利ばかりではバランスがとれない、一方に義務があるはずだ、というマヌケなことをまだいうやつがいるが、さらにアホだ。国民が権利を有する一方で国家はそれを守る義務がある。ちゃんと権利の一方に義務があってバランスがとれている。 国民の義務も書かないとバランスが悪いというやつはさらにやばい。憲法が国家に対する制限規範であることを全く理解していない。刑法は悪いことばかり書いていて、グリコのおまけが付いていないのはバランスが悪い、といっているのと同じだ。 後半は統治機構で、その人権を守るために、憲法の後半(41条以下)では国家の統治機構を定めているものだから、「なんだ、いっぱい国家のこと書いてんじゃん、憲法だって国家を重要視してる」と思うかもしれないが、それは発想が逆だ。国民の人権を守るために「国家はこれをしちゃダメ」「国家はあれをしちゃダメ」と禁止するために国家のことを書いているだけであって、それは国家を重要視しているわけではない。むしろ、近代の憲法は、絶対王政時代に成立した国家という器の怖さを知っているから、国家に対して禁止事項ばっかり書くため、国家のことをいろいろ書くしかなくなったにすぎず、重要視しているのではないのだ。 こう考えてくると、なんだか憲法はなかなかいいじゃないの、ということになる。確かに80点以上の憲法といえる。愛国心を憲法に定めるんだ、などといっている人が考える憲法は、そもそも憲法がなぜ国家について書いているかと言うことにすら無理解だから10点くらいの憲法ということになる。憲法改正というより、破壊に近い。 憲法より先の話って?ところが、私が思うに、憲法にはいくつか我々にとって今一歩と思える部分もある。一つは国民主権、もう一つは三権分立だ。 国民主権と民主主義とは違うえ、国民主権って、民主主義のことでしょう? このブログでも民主主義をすすめようといってるんだから、いいことなんじゃないの、と思うかもしれないが、実際には国民主権は民主主義とは直接の関係がない。国民主権の主権とは、ここでは「国家統治の最終的な権威」の意味で、それが究極的に国民に由来することを元々意味した。権威が究極的に国民にある、というなんだかぼかした言い方にしかならないのだ。 この「究極的」「権威」というのがミソで、誰も直接国民が「権力を行使」するとはいっておらず、「国民」とは具体的にだれ、というのも実はぼかされている。有権者なのか、子供も入るのか、過去や未来の国民が入るのか、もよくわからない。みようによってはその辺りをぼかすための概念といってもいい。 たとえば、「第三身分とは何か、無である」といったシェイエスも、民衆の味方のように見えて、じつは有産市民階級の代表であり、無産労働者たちの意思がそのまま国政に流れ込むことには警戒心を持っていた。モンテスキューに至っては、民衆に出来るのはせいぜい自分らの主人にふさわしいのは誰かを判断するところまでで、政治なんてやる能力はないんだ、とまでいう。彼らは民主主義の反対者だったともいえる。 そこで、国民代表という観念(これも意味不明)に基づく代議制(間接民主制)が考えられた。 人によっては、間接民主制は選挙民が一堂に会することはスペースの関係で出来ないからその代表として選んでいるんだ、と思っている人もいるだろう。しかし、国民代表という考え方のもとでは、選挙民の民意を一応遮断して、議会に集まった選良が、自分たち自身の英知をもって国政を運営する、という仕組みとされた。 実際、日本国憲法43条が「全国民の代表」と書いているのは、それぞれの選挙区の選挙民の意思に拘束されず、国家の利益は何であるかを個々の議員が考えて行動することを意味する。つまり民主主義を遮断した、「国家の意思」を形成する余地を残しているということになる。 こういう仕組みを指して、比較憲法学の樋口陽一先生は、この国民代表制は、民主主義の便宜的代替物ではなく、原理的対立物である、とおっしゃっている。 もちろんこれを何とか民主主義に近づけて考えようとする努力は常になされている。たとえば代議制であっても、比例代表制は、選挙民の意思が正確に反映することを求めているから、何とか民主主義に近づけようとする努力といえる。うまくいけば、人々を超越した「国家の意思」ではなく多数者意思の総和が形成されるにすぎないことになる。 逆に現在のような小選挙区制は、民主主義から遠ざけようという18世紀的の反動主義者の怨念の固まりのようなもの、ということになる。 ただ、これをいくら民主主義に近づけていっても、国家単位のものである以上、前に書いた最悪の民主主義の懸念はぬぐえない。 三権分立憲法が民主主義の行き過ぎによって、人権が侵害される事態が生じると、裁判所がチェックしてくれることになっている。しかし、これも結局のところ政治家が任命したりしているので、あまり機能しない、どころか、いかにも「チェックしてますよ~」と思わせる装置である可能性がある。 たとえば、学校において理事長を選挙で選んだとしても、情報の少ないままの選挙で民意を反映しておらず、理事長が任命する理事会、各校の校長、さらに担任とみんな腐っててむちゃくちゃする。そういうときのために監査機関があって、「大丈夫、理事長の任命したチェック機関がチェックするから」といわれて安心する人は相当お人よしだ。多少チェックしないと制度が壊れるから、もっともひどい腐敗のうち、理事長の体制にあまり影響がなさそうなものだけおざなりに禁止する程度し、いかにもチェック機能が働いているという外形をつくる。j本当に重大な問題が生じたときは、「これは高度に政治的な政治問題、もしくは統治行為だからチェック機関にはチェックできません」という。最初から結論はわかっている。 だからまた戻ってしまったが、国家単位でない民主主義を考えていく必要がある、私はそう思っている。
by luxemburg
| 2005-12-06 17:50
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