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鳥越俊太郎の「淫行」?
『鳥越氏「女子大生淫行」疑惑は、本当に「取るに足らない」ニュースなのか 主要メディアはそろってスルー』
現代ビジネスで牧野洋という人が書いておられる(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49295)。

 一言でいうと、こういうことだろう。鳥越俊太郎さんの14年前の不倫があったかもしれない疑惑は、大手メディアがスルーしているが、アメリカでかつてこういう問題が起こって、有力な大統領候補が立候補を取り下げる事件があった。重要でないと主要メディアが考えているのであれば見当違いである。

ということらしい。そして、アメリカのメディアの変化についてこのように言われる。

「米国の政治ジャーナリズムは「ハート前」と「ハート後」で別物になったとまでいわれている。それをノンフィクションで浮き彫りにしたのが2014年出版の『真実はこれだ:政治がタブロイド化した1週間』(邦訳なし)だ。著者のマット・バイ氏は「政策論議を深めるのではなくスキャンダルを暴く――これが『ハート後』の政治ジャーナリズムの基本スタンスになった」と嘆いている。堀江氏(注:「女性問題で叩くのもういい加減止めにしない?」とツイートしている)と同じ問題意識を持っているわけだ。」

 だが、これは悪い変化ではないのだ、と著者は考えるらしい。

「ゲーリー・ハートは数週間にわたって公の場で不倫疑惑を全面否定していた。そんな状況下でわれわれは不倫現場を目撃した。つまり彼は明らかにウソをついていたのだ。これがニュースでないとしたら何がニュースになるのか?ハート氏は「女たらし」というよりは「偽善者」であり、人格の面で問題を抱えているから、このことについては有権者に伝えるべき
(中略)
いずれにせよ日本の政治ジャーナリズムはまだ「ハート前」の世界にあるようだ。」

 結局、この著者は、アメリカはイエロー・ジャーナリズム化したというより、ウソをついた不誠実、偽善を問題にしているのであり、候補者の人格を問題にすることは、ジャーナリズムの進歩・進化であると考えているらしい。

 ゴシップ記者は、自分の提示した問題をただのゴシップとは言われたくない、さも重要で価値のある問題と主張したいだろうから、「私はゴシップを追い掛け回している三流記者とは違い、アメリカ大統領になる人間の人格を問題にしているんだ」と言うだろう。それをまた生真面目に鵜呑みにするというのはどうなのだろうか。受け手の判断次第だが、ゴシップ記者は、飯の種として下半身スキャンダルを追う、下品だと言われたら、いやいや自分が問題にしているのは人格だとでも反論しよう、というのが正直なところではないかと私は思う。

 この著者の決定的な間違いは、鳥越氏がウソを言っていることが確定していないということである。ゲイリー・ハートの場合、現場を押さえられ、ウソであることは確定した。だから嘘つきというのも考えられなくもない。だが、鳥越氏の場合、不明なことが今の段階では多すぎるのだ。実際、文春は相手の女性への取材すらしていないようで、その記事を前提に鳥越氏がウソをついている、というのは無理だろう。逆に、この選挙期間にそんなでたらめな報道をする方を問題にしたほうがいい。
 その後、はっきりと鳥越氏がウソを付いていることがわかったら、その時点で「人格」を問題にすべきだろう。

 いや、まだ事実がはっきりしない段階でも、それをはっきりさせるのがメディアの仕事だろう、という反論もあるかもしれない。もしそうなら、きちんとした取材で、鳥越氏がどういうウソを言っているのか、さすが大手新聞の取材力は違うな、というところを見せればいいだけのことだろう。おそらく、それはやっているのではないか。ただ、伝聞や推測記事を書く週刊誌とはちがい、やはりちゃんと裏が取れないのであろう。だから報道しない。この著者はそういう推測が出来なかったのだろうか。

 で、鳥越氏がウソをついていると明らかになったとしよう。だが正直なところ、不倫問題でウソをつきました、ということが、政治家の「人格」の問題になるのかは疑問である。それは結局、妻との間における誠実、不誠実の問題で、選挙民がその家庭、夫婦関係に立ち入って、あんたの人格は・・・、と問題にするようなものではない。
 実際、そういう場合ほとんどの妻は、嘘でもいいから否定してほしい、という気持ちを持っているという。つまり、やりました、というのが誠実で男らしいとは思っていないのだ。どんなに疑わしくても完全否定し続けてほしい、というのが本音である。これは、実際そういう家庭問題が起こった女性何人からも聞いた話だ。そんなこと知ったことか、と思うかもしれないが、逆に言えばそう言う妻の気持ちの世界にズカズカ上がり込んできて、人格だの何だのという方がどうかしている。


 著者は、ドラッカーの経営書を挙げて、経営者、リーダーたるものは人格だ、という。

 では聞くが、従業員が社長に、「社長、浮気したことありますか」と聞いたとする。
 たいてい「いや。私は妻一筋だよ」と答えるだろう。

 それで、実はその社長、若い頃やんちゃしていたことがわかったとして、従業員はその社長にはついていけないと思うだろうか。
 むしろ、従業員がついていけないと考える社長は、そう聞かれて、武勇伝をペラペラ話すような社長ではないのか。
 つまり、社長に求められる人格とは何か、という話を、「人格」という一般論でマネー・ロンダリングしてしまう(ウソ→人格に問題→経営者失格。字面だけを見ると正しいように見えるが実は話が途中で変わっていることに気が付かない)から、こういう著者の文章に騙されるのだ。

 現代ビジネスというサイトは、医療の問題など、極めて貴重な提言をなさって素晴らしいサイトなのに、こんながっかりな文章も掲載されることがあるのかと思うと残念だ。

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by luxemburg | 2016-07-30 09:31
自民党改憲草案について(前文その4)
 「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」

 「我々は、自由・・・を重んじ」と書いているのも主客転倒している。国民の自由を重んじ、権利を侵害しないようにするのは国家であって国民ではない。国民は他人の自由を尊重しなくていいのか、という話ではない。それ自体は大事なことだが、憲法に書くようなことではない。刑法に脅迫罪や強要罪が規定されていればそれですむだけのことである。また、民事的な損害賠償を認められることもあるだろう。憲法は、国民に配布される「夏休みの過ごし方のルール」ではない。憲法に何を書くべきであるか、ということ自体が未だに理解できない人たちの作った草案ということになるだろう。
 自民党草案では、国が、国民同士が自由を重んじあっているか、という点に関与する、戦前の町内会や隣組の世界となっている。

 また「規律を重んじ」、などという必要はない。なぜなら、自由というものはもともと制約が伴っている。いったん、無制限に自由を拡げておいてあとから成約する、という考え方はしないのが日本国憲法の考え方である。例えば3人でクイズ番組に出場し、賞金を30万円もらったら、最初から一人10万円、と誰でも思うだろう。まず、30万円とる「権利」があって、それが他のメンバーのために制約される、という考え方ではないのだ。
 どこが違うのか、どうせ10万円ではないか、と思うかもしれないが、実は違う。最初30万にしておき、「何でも自分の思い通りになると思ったら大間違いだ」という名目で10万どころか、事務所の取り分などがいつの間にか紛れ込んで5万や1万になる可能性だってある。昔から、物を知った風の大人が「何でも無制限に自由になるわけじゃない」といって、本来必要もない制限を肯定することが多いが、そういう危険というものがわかった人が憲法を作らなければならない。

 それに続く言葉は、「教育や科学技術を振興し」であるから、その相互監視は、結局国家の目的のためにある、ということである。その国家の究極の目的は何か、「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」。これはもう少し昔の言葉を使えば、「国と郷土を誇りをもって自ら守り」と合わせて、「富国強兵」ということである。
 結局、基本的人権を否定し、さらに国民は国の目的のためにあり(近代立憲主義の否定)、そして、国民は富国強兵のために存在する、これが自民党草案の目指す世界であることを第四文は表している。

 つまり、憲法改正とは、「国民があって、そのために国がある」という、人間が実在し、国家をその手段とする機能的な国家観から、「国があって、そのために国民がいる」という、国家が実在し(それが「国体」なのか神の実在なのかは不明)、国民をその手段とする機能的な国民観への見事な転換と言える。コペルニクス的転回というべき事態であるということになる。

 女王蜂一匹のために、ほとんどの鉢は働き、文字通り虫けらのように死ぬ。だが、この集団の本体、すなわち受け継ぐべき遺伝情報を持っているのは、女王蜂だけなのだから、女王蜂あっての集団である。その一本の遺伝の糸をつないでいくための手段として他の虫けらたちは存在する、それはそれで合理的な生き残りの方法である。ただし、それは国民の生き残りのための合理性ではなく、国家それ自体の生き残りのための合理性ということだ。

 国民のための憲法ではなく、国家のための憲法、国体のための憲法。だから自民党草案の前文は国から始まる。そして国民はその国のための手段。

 それでも国家のほうが大事だという考え方もあるかもしれない。だが、いつの時代も、どこの国でもそうだが、国というものはみんなに利益をもたらすのではない。国を守れと言われてそのために駆り出される人間と、国に守られている人間がいる。国は、おおやけではなく、彼らの私物である。国は特に日本や北朝鮮のように、国家権力が世襲できている国は、その私物化の度合いは極めて高いだろう。会社のために、と思う前に、会社が栄えたときに誰の給料が上がるのか、自分もそれに一体感を感じることになるのか、使い捨てられるのか、よく見極めてから愛社精神をもったほうがよい。

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by luxemburg | 2016-07-26 20:47
自民党改憲草案について(前文その3)
第三文
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。


 やっとここで、国民が出てくる。
 国民とくれば基本的人権が保障される話だろう、と誰もが思う。本当なら、それが第一文に出てくるべきなのだが・・・。

 なんと、初めて出てきた国民は、「国と郷土を誇りと気概をもって自ら守り・・・」。

 国、国ときた後で、国民は、その国を守るべき存在なのである。国があっての国民、という考え方であり、日本国憲法、というより、西欧近代文明が作り上げてきた憲法と真逆の憲法である。日本国憲法は、国民があっての国とする。草案は基本的人権尊重主義と正反対の原理に立つことを示しているということだ。
 いやいや、西欧とは異なる独自の憲法があっていいではないか。日本は固有の文化を持つ国なのだから、という反論も考えられる。
 だが、こと憲法や人権に関しては、それは無理というしかない。日本が特別な宗教でももち、その宗教の法が憲法より上、と考えている国民は、いないだろう。トルコなどアジアの国も揺れ動いているが、日本の場合、東アジアの文化ですか、それとも西欧民主主義の仲間入りしますか、と言った場合、ほぼ答えは決まっている。もちろん、固有の文化を尊重するにしても、憲法より上位の価値とは思っていない。

草案は徴兵制の根拠となりうる


 国土防衛義務を国民がもつ、しかも「誇りと気概」をもつことを意味するこの文は、国民の第一の義務がそれだというのだから、間違いなく徴兵制に繋がる。前文は、抽象的な理念を述べるものが多いとしても、その中で明確な内容を持つものは、法規範性を有する、と考えられている。法規範性とは「前文に国土防衛義務が書かれてるんだから、国民はこうしなさい、ということだ」と主張できる根拠になるということだ。

自民党草案は基本的人権を保障しない


 次に、基本的人権を尊重する、といかにも基本的人権尊重主義に立脚するかに見えるのだが、これは近代において理解されてきた基本的人権とは逆の発想に基づくものだ。
 憲法ができた時代、信教の自由をみとめろ、所有権や経済活動の自由を認めよ、という主張は国家に対してなされた。その人権のカタログ(権利の章典)をつきつけて、国家にその遵守を要求する、それが基本的人権である。つまり、基本的人権とは、国に守らせるものであって、国民同士が守りましょう、というものとは違う。
 よく、地方都市の役所では、「基本的人権を守りましょう」「人権習慣」などと書かれているが、おそらく公務員試験に憲法がないために、こういう誤解が生じたのだろう。
 国民同士が守るとか守らないというのは、譲り合いだとか寛容とかいう、いわば社会生活上のルールの話であって、基本的人権ではない。実際の順序としては、憲法で定め、国に守らせる、その結果、国全体の価値基準として、個人の尊重や男女平等が浸透する、そして、我々の社会生活にも活かされるべきだ、という意識が浸透する、ということになる。その出発点の基本的人権を憲法の、しかも冒頭に書く場合に、主客転倒した書き方では、国会議員の選挙は憲法の試験ではない以上、やむを得ないのかもしれないが、基本的人権の本来的な姿ではない。

草案は、もはや近代憲法の体すらなさない


 「(日本国民は)和を尊び、家族や社会全体が互いに助けあって国家を形成する」
 これは、国民に道徳を垂れているのだろうか。憲法では国民が国に対して、ああしろこうしろということはあっても、逆はない。現行憲法では、子供に教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務しかないが、いずれも国民の権利実現のためである。憲法というのは、国民がそれを国に守らせる規範であるが、国民同士がどう過ごせ、ということは書いていない、というより、そんなことを書くスペースなどない。特に前文において、大切なことを一切書かず、国民が互いをどう思いあえ、と規定するとなれば、これはもはや憲法ではない、というより、憲法とは何か、そのものを理解していない、不思議な人たちがこの草案を作ったということなのだろう。

「和を尊び」
 「和をもって貴しとなす」とかいう、聖徳太子の一七条の憲法を、日本最古の憲法として、それにちなんだのかもしれない。だから、近代立憲主義の憲法を理解しないのだろう。

「家族や社会全体が互いに助けあって国家を形成する」
 これは、家族的国家観ということだろうか(国家観については前に書いた)。近代の西欧では、自分たちの権利を侵害する王政を倒し、新たにいわば用心棒として国家を雇った、国家というのはそういう成り立ちを持つものと考えられている。それは武器も軍隊も持つ存在だから、絶対に暴走することのないように常にコントロールされなければならない。つまり、国民のために、一定の機能をもった国家を創設する、こういう機能的な国家観が近代立憲主義を支えている。その考え方によると、そもそも国家というものができた
 ところが、自民党草案は、家族、社会、国家と自然的な形で形成されてきた、と考えるのだろうが、この国家観そのものが極めて特殊な、日本は他の国とは異なるという独特の、よく言えば、自尊心をもった、悪くいえば思い込みに囚われたものになっている。ただ、憲法において、自分の国は他とは違うのだ、と規定することが安全保障にとって極めて危険であり、自民党草案もそれを理解した上で戦争を予定し、更に国民に国防の義務を課すのであろう。そうしてまで守りたいほど自分たちの国家観が大事であり、憲法はその国家に従属するものであり、さらに国民はその憲法に従属するものである、という考えに立脚している。
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by luxemburg | 2016-07-21 18:01 | 憲法
自民党改憲草案について(前文その2)
前回の続き。自民党改憲草庵前文を順に読んでいっている。

第二文
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。


自民党草案は戦争ではなく平和主義を放棄する


 この部分は、平和主義を導く、日本の憲法にとっては極めて重要な一文となるはずのところである。だが、第一文に続いて、また国が主語となっている。国民が平和の主体であり、客体でもあるとする日本国憲法と大きく異なるところである。

 日本国憲法では、ここの論理は、当否は別にして非常に明快である。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」する。自分は戦争を起こさない。そして、基本的な安全保障の方法は、続く文章でも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ということだから、平和主義の意味内容は明らかである。自分から戦争を起こさないことはもちろん、侵攻されることもない、要するに二度と戦争はしない、ということである。

 一方、自民党草案では、戦争について、「先の大戦による荒廃」とのみ述べている。日本国憲法とことなり、被害者の側面を強調する、というより被害者の側面しかない。つまり、前回はやられたのだから、「今度は周到に準備して、二度とやられないぞ」というのが平和主義となる。
 ただ、「諸外国との友好関係を増進」というので、日本国憲法と共通の理念を持っているようにも読めるが、それに続く文では「国と強度を誇りを持って自ら守り」としていることから、他国からの侵略戦争があることを前提としており、だとすれば、ここでいう「友好関係」とは、特定の国とは仲良くするが、そうでない国とは敵対する、という意味にしかならない。それはどこかの国と組んで、別の国と戦争をするという決意を表しているとも言える。
 自民党草案は、日本国憲法と正反対のことを述べているということである。それが現実的か非現実的かは別として、これを平和主義といっていいのかどうか、評価の分かれるところだろう。最も好戦的で侵略的な国家の憲法もだいたいこんな感じなのではないかと思われる。というのは侵略戦争は自衛戦争と称して行われるからである。

「名誉ある地位」は自慢ではない


 次に、「幾多の大災害を乗り越えて」・・・というのは、多くの台風被害、水害や、兵庫、新潟、東北の震災などを指すのだろう。これを憲法に書いて何の意味を持つのかはわかりにくい。「発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており」というのは、GDPのことだろうか、ここも意味不明である。憲法とは自慢も含めて、言いたいことを適当に書く散文になってしまう。ここはおそらく、日本国憲法の「名誉ある地位を占めたい」に対応することを書いたつもりなのだろう。終戦直後の時点では「占めたい」だった地位が、もはや「重要な地位を占めており」という段階まで達成されたんだと言いたいの。そこには、どこか「もはや戦後ではなく、日本は敗戦国ではない」という意味合いが含まれているのかもしれない。そのことは別に否定されるべきものではないが、憲法に書いても仕方がない。
 問題は、草案がマネをした、日本国憲法の「名誉ある地位」とは何かということだろう。大西洋憲章(Atlantic Charter)第8条は、「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)にとって壊滅的な軍備負担を、軽減すべきその他の一切の実行可能な手段を援助し、進める(They will likewise aid and encourage all other practicable measure which will lighten for peace-loving peoples the crushing burden of armaments.)としているが、諸国民を苦しめる軍備の負担をなくす、すなわち軍縮を進めていこうとする、そんな崇高な目的を持った国際社会の先頭に立つ(まあ、1番でなくても2番でもいいのだろうが)決意である、それが「名誉ある地位」だというのである。決してGDPで他国に勝ったなどという、卑小な目標を「地位」などとは考えていない。これが日本国憲法の平和主義である。決して何もしないわけではない。
 この努力があって初めて、他国からの侵攻はない世界が実現できるということである。

草案では時代に合わない過去の憲法になる


 ここで、条文の細かい文字を離れて、そんなことが可能なのか、それは「脳みそお花畑」問題になる。ひとつは上に書いたとおり、やってみないとわからない、ということである。例えば、ノルウェーは世界的なクラスター爆弾禁止条約を、世界の先頭に立って実現した。実に「名誉ある地位」を占めたことになる。その役割を、本来ならば日本がやらなければならない、そこまでの努力をする前にデキっこない、というのは、少なくとも現行憲法の立場ではない。それをやった上で、出来なかったというのであれば、その時に初めて”憲法は時代に合わない”といえばいいのである。
 もうひとつ、実は大西洋憲章の時は、戦後の冷戦、など考えていなかった。だが、日本国憲法が制定される当時は、冷戦が始まっていて、実は日本国憲法は制定当初が最も時代に合わない憲法だった。ところが、その冷戦時代、何度も第三次世界大戦かと言われた時代を、この時代遅れの憲法は乗り切って、平和を守りぬいた。1991年に冷戦も終わり、大西洋憲章が予定した世界の秩序に再度復帰した現在、憲法は時代遅れどころか、時代が日本国憲法に追いついてきたともいえる。ある意味で、これから実現すべき世界そのものが日本国憲法の時代になろうとしているのであり、再度、日本がその先頭に立つチャンスと言える。ノルウェーに先を越されてしまったが、1番でなくても2番でもいい。まだまだ世界平和のためにやることはたくさんある、どころかこれからである。「平和憲法を持つ日本」が発する言葉は重いはずだ。
 もし憲法を変えれば、もはや平和憲法を持たない、、連合国にとって、旧枢軸国がどのように映るだろうか。

平和主義における『平和』とは何か


 このように、日本国憲法と自民党草案、正反対の平和に対する考え方が出てきたわけだが、平和、とは何なのか。日本国憲法から見れば、自民党草案のような「平和」なら、真の平和ではなく、「領主たちの休戦協定」に過ぎないことになる。互いに武器を突きつけ合いながら、今のところ、まだ切りつけるには至っていない状態、そういう状態を平和とは言わない。一方、日本国憲法の目指す平和は、他国の文化を尊重すること、と言えるだろう。例えば、白人たちが、ネイティブ・アメリカンのところへやってくる。ネイティブ・アメリカンの人たちは、危機を感じ、慌ててヨーロッパ大陸から武器を輸入し、軍隊を訓練してそれに対抗する。白人は、相手が強いとなれば好き勝手はできない。その結果、確かに武力衝突は避けられるだろう。だが、それは平和ではない。すでにネイティブ・アメリカンの文化は失われ、皮膚の色の異なる人たちが建国した「アメリカ」が出来上がっているだけのことである。かれらはやがて、メキシコを騙して土地を取り上げ、ハワイを侵略するだろう。
 一方、もし、白人が入ってきたときに、自分たちとは全く異なる人々の文化を尊重し、互いを信頼し合い、ともにアメリカの大地で生きることを選び、共存しあう道を選ぶなら、それが、おそらく日本国憲法が掲げる平和主義に最も近い姿と言えるだろう。
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by luxemburg | 2016-07-19 22:08
自民党改憲草案について(前文その1)
 少し時間に余裕もできたので、ふと思ったことなどを書いていきたいと思う。10年ぶりくらいになるが、こちらのexiteブログは、ちゃんとした主張を中心に、fc2はマスコミ報道についてのコメントなどを中心に書いていこうと思っている。

 今回は、先日の参院選で、争点隠しと言われた、憲法改正について、田村淳とかいうコメディアンが、自民党の草案を読んで、これで日本が大丈夫かそうではないのか、を考えて投票した、と言っていた。一方、そんなこと深く考えなかった自分を反省し、自民党草案でもちゃんと取り上げてみようと考え、書くことにした。まず前文だけで、何回かに分けて書くしかないだろうが、こんな調子で最後まで行くのだろうか、と思うが、飽きたらやめるだけだ。

自民党草案前文
 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


日本国憲法前文
 日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し,政府の行為によって再び戦争の惨禍(さんか)が起ることのないようにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも,国政は,国民の厳粛(げんしゅく)な信託によるものであって,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。これは人類普遍(ふへん)の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅(しょうちょく)を排除する。
 日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであって,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは,平和を維持し,専制と隷従(れいじゅう),圧迫と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思う。われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免がれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは,いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従うことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。


前文の性格


 前文は、一般的に憲法制定の由来や基本原理が記述されているため、単なる枕詞や挨拶ではなく、極めて重要な意義を有している。また、日本国憲法という題のあとに書かれているので、憲法の一部とされている。したがって、この前文は、憲法だけでなく国と国民のありかたを定める、極めて重要な意味があるとされている。

日本国憲法前文の定め方


 日本国憲法は、日本国民を主語とする文で始まり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義への決意を述べて、そのために憲法を定めたと規定している。ちょっと三つの原理をあわてて詰め込んだ感じもあるが、まあ、平凡な書き出しと言っていい。ただ、明らかに「政府の行為によって戦争の惨禍」が発生してしまったという反省が込められているとも言えるため、ちょっと恥ずかしい文章と言えるかもしれない(いくつか恥ずかしい文章はあって、例えば「第36条(拷問・残酷な刑の禁止) 公務員による拷問及び残虐な刑罰は,絶対にこれを禁ずる」は、先日までやってましたと言っているようなもので、これは消したい、という気持ちもわかるが、戦争の歴史を語り継ぐ必要があるという観点からは、残したほうがいいとも言える)。
 「諸国民との協和による成果」はわかりにくいのだが、大西洋憲章の第4条で「大国、小国または戦勝国、敗戦国を問わず、一切の国がその経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等条件における利用を享有することを促進する努力をしなければならない」と定め、戦争後の世界において、敗戦国だからといって繁栄が妨げられることがないとする、諸国民の信頼の成果が得られることを表しているのであろう。
 「自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」はわかりにくいのだが1928年のケロッグ・ブリアン協定(不戦条約)で、人類の福祉を増進し、「その人民をして、本条約の規定する恩沢に浴せしめ、もって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合せんことを希望」する、つまり戦争は最悪の人権侵害であることを明確にした、その理念を反映している。
 ただ、第二文は、国の在り方について、国民が信託することによって国家ができる、とする国民→国家という順序がまもられ、社会契約論の立場に立脚していることがわかる。世界標準の近代立憲主義に立脚することを宣言している。この点も当たり前すぎる内容で、理念としては、大日本帝国憲法のような憲法をはっきりと拒絶する、としていることになる(形式としては、大日本帝国憲法を改正して、日本国憲法ができたことになっているが)。

自民党草案前文について


 自民党草案では、憲法の始まりが、「国」になっている。まず国民があって、その国民の決意によって憲法ができるとする日本国憲法と正反対の定め方と言える。この点は、大日本帝国憲法の第一文が、「朕(=天皇)」から始まることに対応している。
 次に、いきなり、国そのものについて語り始めるのだが、日本国が「長い歴史と固有の文化」をもつ、という。

草案における国家観の特異性


 これについては、そもそも国家論として争いがある。一般的に近代国家は17世紀半ば(1648年のウェストファリア条約。それまではおそらく、国境などの概念もなかったものと思われる)に誕生したと考えられており、それ以前には「国」はなかった。日本でも、「正月はクニに帰る」という時のクニは、故郷のことであり、各地方、もしくは各藩以上に、「国家」というものは国民の意識の上でもなかったものと考えられている。日本の場合、明治維新前後で、国家というものが意識されるようになってきたのであり、むしろ、他国よりも200年ほど遅いともいえる。
 したがって、国としての長い歴史という自体がフィクションである。ひとことでいうと、その辺の国とは違い、この日本だけは古代から続く特殊な国家である、ということになる。このテの発想は、ムッソリーニが1922年のローマ進軍の際に「古代ローマの復活」をいい、ヒトラーが「ドイツ第三帝国」を主張したのと同じく、自分たちの国は特別に選ばれた国であり、こんな伝統を持っている、とする、神話的国家観ともいうべき思想に立脚した、およそ近代国家とは異質な、独特の国家観に立脚していると言える。
 さらに「固有の文化」を持つのはいずれの国でも当然のことであり、日本国は固有の文化を持つ、と言うことは、日本国憲法が「諸国民との協和」という相互尊重を最初にあげている表現と著しい対照をなしている。

草案は近代立憲主義に立脚しない独特の憲法観


 次に、自民党草案は、国民主権、三権分立を並列的に並べているが、日本国憲法では、三権分立は「憲法の基本原理」ではなく「統治の基本原理」とされている。なぜか?それは、日本国憲法が近代立憲主義に立脚するからである。
 近代立憲主義とは、国民が自らその人権を守るため、国家を作って権力を信託し、人権を侵害することのないように、統治の各機能を区別、分離し、相互に抑制を図るために三権分立を定めたのである。したがって、基本的人権の尊重がまずあって、そのために国家があり、その国家の機能は三権分立でなければならない、という順序となるのである。だから、基本的人権尊重、国民主権、平和主義が日本国憲法の三原理とされ、三権分立はそれを支えるための「統治の基本原理」として一段下に控えることになるのだ。
 したがって、自民党草案は、近代立憲主義を考慮しない、先進国の憲法としては極めて特異な憲法をさだめる、と言っているのである。国民主権と書いてはいるものの、そこには「国」しか登場せず、国が臣民のために与えた形をとる大日本帝国憲法により近いということができる。
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by luxemburg | 2016-07-19 12:37 | 憲法