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毎週土曜日のゴールデンタイムに日本テレビで「世界一受けたい授業」というテレビ番組をやっている。内容は数学、脳科学などその道の専門家が順にそれぞれ15分ほど出演して、意表をつく内容で我々の常識を覆し、楽しませてくれる教養・バラエティー番組だ。それに先日俳優・歌手の武田鉄矢さんが出演され、日本の昔話にはこういう読み方もある、という内容で、かさじぞう、桃太郎などを例に挙げて講義していた。
武田さんは、多面的な見方が重要として、立方体の見取り図(ネッカーキューブ)をあげて二通りに見えることを説明し、それをきっかけにして本論である昔話について語った。 かさじぞう まず「かさじぞう」は「心温まる話だが、このおじいさんは本当にいい人なのか?」という問題提起をされた。 かさを売りに行って、売れずに帰ってきた余り物を地蔵の頭に乗せてきただけではないか、本当にいい人というためには、行きにかさをかけてやるべきである、というのである。 行きも同じ道を通り、そこにお地蔵さんがいるのがわかっていた。儲けの機会を失ってでもかさをあげて初めて「善」、ということは、おじいさんは「偽善者」(とまでは言っていなかったが)ということになる。 私はあぜんとした。何という意地悪なものの見方であろう。私も少しはお金があるとき、通販生活の「ドイツ平和村」などいくつかの団体に年末に募金して少しは罪滅ぼしをしたような気になっている。ただ、それはあくまでも自分が生活した上での話であって、生活を犠牲にしなければ偽善であるといわれたらどうしたらいいのかわからない。 私は偽善というものはないと思っている。ちょっとした人助けをして、自分がいい気持ちになったら偽善である、というひとは本当は何もしたことがないのではないか。自分がいい気持ちにならない善をなし得ると言うことは通常考えられない(以前のコラム、「まだ見ぬあなたを愛したい」でマークトゥエインの人間機械論をあげたときに触れた)。 桃太郎 武田さんは一話目で調子が出てきたのか、二話目はさらに意地悪にスピンがかかったような玉を打ってくる。 桃太郎は、両親に育てられなかったために、人と違うといじめられて仲間はずれになり、グレてそのコンプレックスから自分は人と違う、だから違うことをしなければならない、と思うようになり、鬼退治に至ったという。 親のいない子供がテレビを見ていたらどう思うだろうか。このような因果関係を物語の流れにするほど当然のものとみなす感覚が「物事の一面だけを見ない」態度だとしたら私はそのような視点を持たなくて結構だ。 だいたい、桃太郎の話は流れてきた桃を食べたおじいさんとおばあさんが桃パワーで若返り、互いの姿を見ていきなり・・・な気持ちになり、・・・で子供ができ、それが桃太郎だという話であるが、子供向けに桃から生まれたと言うことになったらしい。だから、そもそも武田さんの推理の前提が崩れることになる。 余談だが、私らの若い頃は女学生と道を歩いただけで「桃色学生」といわれた(ウソ)もので、どうも桃にはそういう方面の連想があるのだろう。諸外国でもあまり・・・やめよっと。女性読者が減る。 物語の違う側面を見るというのなら、長尾龍一「法哲学入門」(日本評論社:p38)が最適だ。ちょっと引用すると、 「大正国語(1919~1932年)巻1の最終章は「モモタラウ」である。 (中略) これは全くの強盗行為である。大正国語版「モモタラウ」の特色は、鬼が何か悪いことをしたという記述が全然ないところにある。昭和国語(1933~40)はさすがに多少気が引けたと見えて、鬼の大将に「モウ、ケッシテ人ヲクルシメタリ、モノヲトッタリイタシマセン」と言わせているが、桃太郎の行為が「強盗からの強盗」であることにかわりはない。さもなくば財宝を着服せず、被害者を捜して返還すべきである(遺失物法1条) 鬼が悪人であるのは、ただ醜いからである。ローマ神話の正義の女神ユスティティアは目隠しをしているが、その原理をはるか昔に見抜いていたと言うことだろう。つまり、武田さんふうに解釈するならいじめで性格の歪んだ桃太郎が、社会からののけ者や弱者に対して暴力を振るい、憂さを晴らした、ということになるだろう。 実際、桃太郎の話ではもともと鬼の悪行の記述はなかったらしい。つまり海外に遠征して、何の罪もない人たちから日本人が天然資源を奪う、その行為が英雄視される、という話に過ぎない、当時の国語教科書に最適の話である。 他にも、浦島太郎はメイド喫茶に行ったニートが食わせてもらって与えられるだけのことをしている間に、現実は自分が老人になっていた話であるとか、まあ格差社会の本質をはぐらかして個人の問題に還元する、意地悪のオンパレードで聞いていられなかったので、あと一話あったようだがそこで見るのをやめた。 武田鉄矢さんはおそらく「父兄」という言葉を使うことから見ても、あまり教育についてはいろいろ考えてこなかったひとであって何の罪もなく、誰かがこのネタをつかませて、彼の親しみやすいキャラに語らせるという悪行を行っただけだろう。 なんだかいろんな不条理や圧力の中で、被害者となりやすい生徒の立場に立って、弱者の味方のような金八先生のイメージを使ってこのようなことを話させるというのは、メディアというのは罪なものだなあ、とおもった。 それにしても「芸能人」達のかわいそうな姿。本来頭のいい人もたくさんいるだろうに、「人と違うから違うことをしなければならないと思ったんですよ~」などといわれたら、「え、人と違うから、同じになりたかったという考えもあるんじゃないの」くらいの疑問は持っただろうに、稚拙な推論に「あ~、なるほど~」と頷かなければならない、それが「芸能」というものなのだろう、出演者たちは本当にかわいそうだった。多面的な見方をしてはいけない講義だったのかもしれない。 (なお、番組のホームページでは、かさじぞうのおじいさんはいいおじいさんなのか、とか、桃太郎は両親がいなくてぐれた、などはさすがに当たり障りがあるのか書いていない。) 最後に、私くらいの年齢になると、経験的に「多面的なものの見方」なることを前面に出して来る人の言うことはとりあえず信用しない。小さい頃から、子供なりの疑問に対して「いろんな見方があるんだよ」「世の中はそう単純じゃないんだよ」という大人はいなかったか。その時はそうなのか、と思っていたが、今になってみて、自分の子供からの疑問に答えつつ、その大人がどういう人だったかわかる。 長尾龍一先生の法哲学入門は、ちょっと古いけれども、上に引用したような調子で本当に笑わせてくれて脳みそをかき回してくれる、一般市民向けの楽しい本なのでおすすめする。私も何度も読んで大体覚え、時々会話に挟んで、あら、この人ちょっと知的なのかしら、と見せかける小道具にさせていただいている。
by luxemburg
| 2007-01-15 20:05
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