人気ブログランキング | 話題のタグを見る

とりあえず、のブログです
by luxemburg
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

九条の会



最新のトラックバック
カテゴリ
ブックマーク
以前の記事
タグ
王が許さぬ限り
 と、たいそうな題をつけて、その実よそのブログへの、しかもタイミングを逸したコメントを書くだけなのだが、お玉さんのところに、門番マルコというお話があり、
 
「昔、ある国の門番マルコは、過去の経験から、その門は戦いに行くときにしか開けてはならないと王様からきつく言い渡されていた。あるとき王様自身が外での急病のためにその門を開けよという。マルコはどうすべきか」



 これは、教室で使う道徳の教材らしい。だが、道徳的な人間でない私はどうしても政治や文化のアンテナが反応してしまう。要するにこの話は「法の支配」「法の優位」という問題、つまり王は法の下にあるのか、という問題ではないか。

 法の支配を端的に表す言葉は、「王は何人の下にもない。ただ、神と法の下にある」というものだが、統治権力もまた一元的な法の下にあるという考え方だ(二元的な法体系を考える国々もあり、その場合には王様の統治のルールは我々と同じ法の下にはない。ちなみに大日本帝国憲法は後者の考え方を輸入し、統治権力は特権的な地位にあった。もし一つの法の下にあると行政権を司法権に隷属させることになるからダメ、と極悪人伊藤博文が言ってた)。その考えからすると、王とて法の支配の下にあるのだからその法には従わなければならない、という話になる。ということは王自身がルールより下位にある以上、マルコは門を開けてはならない。
 しかし、冷静に考えると王が定めた法が王より上にあるのはおかしい、法が妥当する根拠が王そのものにあるのだから、王はいつでも変えられるはずである。したがって、もともとこのルールは「王が許さぬ限り、門は開けてはならない」という例外を許容するルールと考えるべきことになる。したがって、王がルールの上にいる以上、王が許せばルールをいくら変えてもいい(図の灰色の領域。王より下位にある)。

 ちょっと待て、えらそうに謳い上げた「法の支配」はどこに行った?王は法の上なのか下なのか。
王が許さぬ限り_e0068030_17174949.jpg 王より上位にある法はたしかに存在する。それは「正しい法」である(図の青い領域。追うオも包摂する一元的な法)。「正しい」というのは一人の天才の直感などではなく、長い歴史の中で数々の事件の試練にも耐えて、何度も知恵を絞った各時代の裁判官が何度も確認し、やがて人々が「法的確信」にいたった、経験的理性の産物であり、古く、正しい法として定着したものをいう(日本国憲法97条「幾多の試練にたえ・・・」)。
 このルールはどうだろう。最初は先代か先々代か、とにかく王の誰かがこの門の開閉についてのルールを決めたのかもしれない。しかし、数々の歴史的な経験から、やがて個々の王すら変えてはならない「正しい法」としての地位を獲得することもあるだろう。この問題文にある、過去の経験がそういう意味であれば、これは王より上にあるルールと考えなければならない。

 すべての上にあるルールの存在、この観念を得るのに、人類はどれだけの時間をかけてきたことだろうか。丸山真男さんは、大日本帝国憲法を持ちながら、それが高次の法とはならず、統治権力者がいかに好き勝手な欲望肯定主義(石油が欲しいわ、国際社会のルールなんてどうでもいいじゃない)にとりつかれていたか、人民の側にも「高次のルールで統治権力者を縛る」という感覚に欠けていたか、を非常に鋭くえぐっておられた。
 そういう人間を超えるルールの存在は、レトリックとして神を使ったり自然法と呼んだりするが、西欧は一神教、日本は多神教で価値多元主義などとしたり顔の解説で満足している間に、私たちは、揺るがしてはならない大切なルールを簡単に失ってしまうかもしれないのだ。
 もちろん、日本国憲法において「正しい」とは、過去幾多の試練に耐えて人類が(日本人自身が、でないところが弱み)獲得した人権であり、人権を国よりも上位に置く憲法だから「正しい」憲法なのである。

 西欧と日本の法意識、この違いを明確にするエピソードがある。
 マッカーサーがフィリピンに上陸するとき、「私は必ず帰ってくる」と以前宣言した手前、さっそうと上陸する姿を見せたかったので、ちょっと軍服をわざわざこの日のために取っておいて、わくわくしていた。ところが、上陸用舟艇の艇長の若造が、岸まで何十メーターかあるのにマッカーサーも含めた乗組員全員に対し、「よ〜し、ここで降りろ」と命令した。
 軍の命令は絶対である。それはマッカーサーでも逆らえない。たかが数十人ほど乗る弁当箱のような上陸用舟艇の艇長であっても、海岸線の状況判断にかけては誰以上に経験的理性判断が出来るものと考えるしかない、したがってそれはここで得られたマッカーサー元帥より高次の「正しい法」なのである。仕方なくマッカーサーはきれいなズボンをひざまでまくり上げて、不機嫌そうにものすごい形相で海岸線を歩いたら、そのカッコ悪い姿を写真に撮られて、それが新聞に出てしまった。ところが、その記事はマッカーサーのフィリピンに戻る並々ならぬ決意を表したものとして、かっこいい、という話になった。すっかり気を良くしたマッカーサーは次の上陸地点では、また別の艇長に向かって「ねえ、このあたりで降ろしてくんない?」「まだダメだ」という会話をしたという。


 前線の者には玉砕などとたいそうなことを言っておきながら自分は仮病で逃げる、それどころか安全なところにいて勇ましい命令だけをして、自分は芸者をあげてどんちゃん騒ぎ。日本の統治権力者は「法は弱いものをいじめるためにあり、自分たちの欲望は法の上にある」と思っている。教育基本法の議論を見ても法を支配の道具にしようとする意図が見え隠れしている。
by luxemburg | 2006-12-06 07:08
<< アベ内閣支持率低下 そうそう、不当な支配を理解でき... >>