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by luxemburg
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九条の会



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少し勇気を--民主主義再論
 日本やアメリカは民主主義? 江戸時代は? と聞くと、たいていの人が現在の日米は民主主義であり、江戸時代は民主主義でない、と答えるだろう。教科書的にはそれもいいかもしれないが、もし"民衆の意思がいかされた政治を民主主義という"のであれば、江戸時代だって民衆の支持がなければ政権は維持できないから民主主義だし、逆にアメリカ人の3割が「イラクで大量破壊兵器が発見された」と思っている社会で、本当に民衆の意思が活かされた政治が行われているのか、という疑問もでてくる。
 こういうのは用語の問題だから、こだわってもしょうがないともいえるが、我々が求める民主主義を、本来の理念から探していく作業は大事だと思う。



前にも書いたが、民主主義の本来の理念は「治者と被治者の自同性」であり、メンバー全員が等しく政治的なりソースにアクセスでき、「えらい人」がいない状態である。だから、4年に一度大統領を選ぶときだけ紙を一枚もらい、次の選挙までは殺されるかもしれない立場に立つのは民主主義の理念からほど遠い。とてつもなく「えらい人」が生殺与奪の権まで握るからだ。これが日本、アメリカ、北朝鮮のように、世襲となると民主主義からはいっそう遠い。
 わかってるよ、民主主義がそうして人権を抑圧してしまう事態を重く見て、裁判所が人権侵害をチェックすることになっているんじゃん、"立憲民主主義"だよ。しかし、これも見ようによっては茶番だ。だって政権担当者が自分の都合のいい人間を裁判官に選んでいるのにどうやってチェックできる?チェックしていますよ、というポーズで国民に痛み止めを打っているに過ぎない。裁判所ほど、とらえどころのない民衆の意思や雰囲気に左右され、しかも見た目はしかつめらしい服装で重々しく、本人たちは至って大まじめに活動する機関もめずらしい。

 ではどうやったら我々が民主主義と呼んでいるようなものが少しでも理想に近づくことができるか、そのためにはいくつか条件があると思う。

1. ある程度のメンバーの同質性
 民主主義は共通の言語なしに成立しないし、「教祖が空中に浮いた」とか「ホロコーストがなかった」と絶叫する人が相当数いたりすると、機能不全をおこすだろう。また、メンバーの中にガンジーとか天皇とか呼ばれている人がいたりすると難しい。最低限の共通基盤は必要だ。

2. 完全情報
 決めるべき事項について情報が行き渡っていること、さらに自由に行き渡る動脈のような流れのよい仕組みがないと、民主主義は無理。

3. 少しの勇気
 上の二つは当たり前すぎる話だが、私が経験的に大事だと思うのは少しの勇気だ。民主主義には勇気がいる。
 小さい集団、たとえばPTAなどでは、似たような人が集まり、情報もまあまあ行き渡り、上の1,2の条件が満たされるから、簡単に民主主義が実現するはずだ。しかし、何故かそれが育ってこない。お母さんたちの行動を見ていると、すぐ「会長はやっぱりお父さんを」。それをヘッドに祭り上げておき、自分たちは下働きならいくらでも、という感じにわざわざ無責任な方に(仕事するから責任を果たしているというかもしれないが、それは民主主義における政治的な責任とは違う)自分から逃げていく。せっかく成立しそうな、メンバー全員が平等、というコミュニティーを、自らヒエラルキーの階級社会にもっていって、そこに安住しようとする。おそらく、会議の時にはだれも「私はPTA会長であり、ヒラの役員とは違います」なんていわないだろうに、むしろヒラの側から、「ここは会長さん一任ということで」のような動きが出てくる。
 別に出しゃばれとはいわない。しかし、自分たちの子供が通う学校で自分たちが参加し、責任の一端を担って自分たちで決める。そしてかりに文句が出ても、みんなで決めたんだから、と自信を持っていう。ちょっとの責任だ、だって民主主義は責任もまた平等なんだから。そうすればなかなかそれを無視できるものではないのだ。

 いま、学校現場は曲がりなりにもあった民主主義を破壊し去って、階級社会を作っていこうという動きがある。それは前にも書いた真理教育から大きく離れていく、ファシズムの教育観だ。職員会議などでは校長がえらそうにしているようだが、校長もまた校長会に行ったらつるし上げられるのではないかとびくびくしている、ではその上はというとまたその上にびくびくしている。そうやってみんなでよってたかって、自ら自分たちを不自由にして、ヘッドを祭り上げては民主主義から無責任な階級社会に逃げていっている。みんなで一生懸命に無責任に流れ、何ら敵でも何でもないのに、教職員の組合が悪いかのように、お上の登場をひれ伏して待つ。水戸黄門や暴れん坊将軍の見過ぎで、おかしくなっちまったか。

 ヨーロッパなどでは「おおやけ」の学校を無視して、地域の共同保育園のような運営で学校にし、親たちが参加して共同で学校経営をしているところも多い。というか、知性のある親は自分の子供の教育から本来の意味で逃げない(英才教育や塾などの「外注」に金銭を支払うことは「教育熱心」ではない)。自分が育てるんだから、と学校に通わせずに自分が教えるというエジソンの母のような人もいる。
 学校にしても、どうせ通わせるならシュタイナー、モンテソーリと理念を掲げた共同の施設を作って運営し、学校としてやっていく。勇気のいることではあるが、できる。日本は本来学力が高かったはずではないか。国も豊かなはずだ。その上民主主義国家であるはずだ。教育にもどこにも負けないくらい熱心だ。地域の学校を少しずつ、私たちの子供を育てる共有の場、にしていくことは十分できる。

 民主主義は、幕府か大統領か、というふうに決まるものではない。私たちの身近な日常生活から育っていくものだ。私たちがそれを大事に育てていけば、誰にもなかなか無視できるものではない。

 少しの勇気を。今の教育基本法は、消えそうにされながらも、まだ私たちと私たちの子供の足もとを明るく照らしてくれているではないか。



 民主主義は、どんな場でも実現されているかをチェックした方がよいでしょう。たとえばおくさまと「高速の方が速いわよ」「下に降りた方が速い」と話し、結局そのあと高速を選んだあなた、あなたも意思決定に平等に参加したのです。民主的に決めたのであれば、責任の半分はあります。そのあと高速が大渋滞、「おまえが最初に高速って言ったんじゃないか」・・・アホか。
 では解答を発表しましょう。
「おそくなっちゃったな、ごめんな」
「私が高速って言ったからよね、ごめんなさい」
「何を言うんだ、俺が最終的に高速にしたんだから、俺の責任だよ。それにいいじゃないか、こうして二人で話す時間ができたと思えば」
「あなた・・・」
 民主主義と関係ないかな(^^)。



 このエントリーは、教育現場の民主主義について書いた先日の話の続きです。
by luxemburg | 2006-05-19 20:39
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