とりあえず、のブログです
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愛の余韻----被害者感情と死刑廃止論
 先週のUnder the Sunのお題が「愛」で、それぞれに恥をさらした(実は私だけ?)のはよいとして、TNさんが続きを書いておられる。最近の光市母子殺人事件に関連して、被害者の怒りに死刑という刑罰でこたえるべきかどうか、という問題である。



 日本とともに非武装を掲げるコスタリカは、軍備などより人の気持ちの点で日本と大きな差がある、という人が多い。
 中でも子供との関係が一番印象的だという人の話をよく聞く。学校を訪問すると、「子供はみな愛される権利をもっています」というのを第一にかかげ、まず子供の存在を肯定する。教室の中で生じたトラブルも誰が悪いと裁いて、一方の子供を否定するという解決をせず、徹底的に時間をかけて互いが理解しあうまで先生も力を注ぐという。だから日本の漫画のようなものも、コスタリカでは、違和感をもって受け取られることが多く、善人と悪人がはっきりしていて最後にパンチでぶっ飛ばして「ワッハッハ」というのでは何の解決でもない、と納得されないという。

 TNさんには、子供を肯定する育児(アドラー式育児)の話もしたが、私は子供がその存在を肯定されず、愛されることもない社会では、少年犯罪はなくならないと思うし、少年法を厳罰化しても、なんら解決はないと思っている。厳罰化しても死刑になるために犯罪を犯したという人間が出てきている以上、もっと根本的なことを考えなければならない。
 子供を愛するどころではなかった時代には少年犯罪は非常に多かった。その後、比較的国が豊かになり、民主主義教育が十分に行き渡る時代には少年犯罪が減った(スタンダード反社会学講座「キレやすいのは誰だ」より)。しかし、最近では子供はなかなか肯定してもらえない。たとえばお受験などは、よほどできる一部の子以外、結局親が子供の現状を否定し、親が望む理想像を強制してしまう場合が多いだろう。愛されずに育った子供たち、さらに格差社会のもとで愛されるどころではない環境にある子供たち。

 犯罪被害者が「犯人を死刑にしてくれ」と望む、その気持ちは見殺しにできない。しかし、残念なことに、事件が生じてからの法による解決というのはあまりに無力で何も生み出さない。
 それでも刑罰に期待する人が多い。そういう人たちが支持する相対的な応報刑はもともとヘーゲルの唱えたものだが、法に対する否定である犯罪を否定する刑罰が、弁証法的に犯罪者と社会を高みに押し上げ、社会の正義と法が確認されると考える。この考え方の落とし穴は、なんだかこれで正義が本当に実現されるかのような錯覚が生じ、刑罰とお上の権威にとって非常に都合がいいということだ。
 しかし、いくら国家的な意味で法が確認された、正義が実現されたと理屈をこねても、それは為政者の論理である。被害者がかえってくるわけでも安心して暮らせる社会が戻ってきたわけでもない。われわれのための刑罰論ではない。こういうドイツ法的な考え方をつまみ食いして国家主義だけを高めようとする伊藤博文以来の伝統に結構やすやすと踊らされる議論がある。こんなものは解決でも何でもない。

 成熟した民主主義社会では我々自身が社会のデザインをすることができるはずだ。なのに、お上に頼って、お上から見た「正義」で満足する思考停止が生じ、結局われわれが本当に安心できる社会をデザインするという考えは出てこない。厳罰を望み、警察の活躍を期待し、叱咤激励する。防犯カメラだらけになってもいいし、職務質問の行き過ぎがあってもかまわない。公務員は減らすが警察官と軍備は増やす。お上によるお上のための安心。

 被害者の遺族のために本当にできること、それはこれが繰り返されない社会を本気で考えることであると思う。
 われわれが本当に主権者として社会を作るという自信と効力感をもつ社会、その対極に国民が無力感から抜け出ることができず、お上が復讐をしてくれることを唯一の望みとし、それを正義とするしかない悲しい社会がある。



 人を殺しながらいつまでも笑っている人を絶対に野放しにしてはいけないという気持ちは、繰り返すがとても大事だと思う。いま、私たちに止められる殺人がある(リトル・バーズ----イラク戦火の家族たち)。

 なお、この事件の弁護士についてもちょっと書こうと思っていたのだが、ちょっと気力が続かない。
 ペガサス・ブログ版などがまとめておられたのでそちらへ



追加

 愚樵空論さんから速攻トラックバックをいただいた。私の大好きなブログの一つ。
 その中で、被害者遺族が次のようなことをいっていたという(もちろん愚樵空論さんは支持しておられない)。
死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ
 できれば元の引用者がミスリードしているのだと信じたい。

 教育刑・改善刑という考え方では、死刑は出てこないが、その考え方の最大の欠点とされるのは、「改善不能な犯人はどうするんだ」という点だ。それゆえ、改善不能な犯人は残念ながら社会から永久に隔離するしかない、という死刑存置論はある。そうして初めて「死刑は残虐な刑罰(憲法第36条)に当たらない」とかろうじていえる。
 ところが、かりに犯人が心から反省するのであれば、改善可能ということになる。改善可能な犯人を殺せ、という考え方は基本的にないといっていい。
 被害者の気持ちとしては、「何の罪もない善良な市民を殺したのだから、その犯人もまた反省をしてこれからの人生を希望を持って生きようとするとする、その希望を打ち砕き、尊い命を絶たなければならない、それで二つの殺人が等価になるんだ」という同害報復は、自然、ともいえる。

 ただ、この議論の欠点は、もし犯人が心から反省している様子が見られたら、社会の応報感情は残念ながら被害者の味方をしない、というところにある。

 フランスで死刑の是非のアンケートをとると、もちろん反対派が多数だが、極右支持者では死刑賛成派が7割になるという。日本の死刑支持者の割合はヨーロッパのネオナチレベルだということらしい。そのネオナチレベルの日本人であっても、残念ながら、そのような犯人を見たとしたらおそらくほぼ誰も死刑を支持しないだろう。

 裁判所は法の番人ではない。肌で世論を感じて「ワンクッションおいた魔女裁判」をする非常に「民主的な」機関である。三権分立があって、司法権が独立していて、"裁判官は法を語る口である"というのが日本の社会科教科書に書かれていることだが、そもそも行政の長が自分に都合のいい人間を選んで、そういうことがあるわけがない。威厳をもって「法を語る」演技は当然やるわけだが、あくまでもそれは「依法的支配」の外見を作るだけのことだ(もちろん、法というものが無意味とはいわない。その議論はまたそのうち)。法学者はあまりやらないが、アメリカの最高裁の判決と政権の関係をみたら、そういう程度のことはすぐにわかる。
 というわけで、裁判所は「民主的」な機関だから犯人は絶対に死刑にならない。民衆が納得しないからだ。おそらく一部の刑罰好きな人(図書館などに刑罰や拷問の歴史の本がけっこうあるのは、そういうものが好きな人がリクエストするのだろう)が、血と残虐さを求めて賛成する程度だろう。
 そして、おそらく被害者遺族もその場になれば「もういい、あいつを殺したって家族は帰ってこない」と思うだろう。そのときにこそ我々が、刑罰の残虐さで正義を維持するのではなく、あるべき社会すべき使命と人の命の重さに真剣に対峙することになる。





 刑罰については、おおきく、応報刑と教育刑があって、一般の人が考える刑「罰」というのは応報感情であることが多い。
 昔は、同害報復といって「人を殺したら死刑」というふうに同じ害をもって報いるという考え方(比較的最近ではカント)があったが、現在は、応報といっても相対的応報刑(窃盗なら5年とすると強盗は7年、というような考え方)がとられている。
 同害報復の方がむしろすっきりしていて、刑罰は犯罪に対する単純な反動であって、刑罰そのものにあまり目的とか意味とか見いださないから、ヘーゲルのような悪質な理屈もつかない。
 また、同害以上の刑罰が科されることがなく、恣意的な判断の余地が小さいため、そういう意味で自由主義的ともいえる。
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by luxemburg | 2006-04-25 21:55
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