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今回は国家単位でない民主主義だけれども、その前に民主主義について。
前の回、国民主権と民主主義とは違うよ、といって国民主権の話をしたけれども、実際には民主主義についてはあまりちゃんと書かなかった。 民主主義とは民主主義とは、「治者と被治者の自同性」。全員が全員に対して平等に権力者となる状態、逆に言えば誰も誰に対しても権力を振るわない状態、全員が政治的に平等な状態、子供にわかるようにいうと「えらい人」がいない状態、といっていい。 みんなが権力を振るわれないようにするためには、しっかり話し合い、出来れば全員の合意を調達する必要がある。そうすれば誰も強制されたり権力を振るわれたりしたと感じないからだ。多数決は、少数者にとっては権力を振るわれたことになるから本来的には民主主義からは少し離れるが、どうしても意思決定が必要なときには「やむを得ない」制度として是認される。 この理念に近づけるためには、いくら票が正確に反映して、「民主主義」的に見えても、4年に一度だけ大統領選挙をして、大統領が戦争開始を含む決定をし、それに国民が従う、というのはダメだ。「えらい人」がいるから。 民主主義の単位を細かくしていくこれを防ぐためにはどうしたらいいのか、それは民主主義の単位をどんどん細かく分解していけばいい。 政治的には、多元的な民主主義を実現していこう、これだけである。この考え方は大学の頃、アントニオ・グラムシに傾倒してから始まった。グラムシは、工場評議会といって、労働組合とは目的の異なる一種の自治的な組織を作ろうと考えた。 このような草の根の民主主義の先に社会主義があると考えたのである。資本主義の体制が、農村から人を引きはがし、工場労働者を作った。工場労働者は労働力を売り、分断された労働の中に押し込められているようだが、そこに労働者の社会が歪んだ形ででもできる。資本主義はなぜ次の社会のゆりかごを労働者に用意したのだ。この分断された労働を組織し、豊かなコミュニケーションの場として再生していくことができる、というのがグラムシの大きなデザインだった(実はグラムシの見解はけっこう難解かつあいまいで、よくわからない。私なりの理解はこんな感じ)。このような考え方は通常「構造改革論」といわれている。現在与党が唱えている「構造改革」がいかに薄っぺらく理念のない場当たり的なものかはよくわかる(新自由主義という理念があるじゃないか、というかもしれないが、それは「お母さん、僕は『勉強しないという理念』をもってるんだからおづかい値上げして」という程度の理念である。何もせず、税金だけはしっかり取る政府、などというのは理念に値しない)。 なお、日本共産党(その話か、しつこいな。あの党は未来永劫変化しないよ、って言わないように)もなんだか緩やかに社会の変革を考えているようだけれども、基本的には党の組織論としては、議会主義である。マルクスは、議会はブルジョアジーのイデオロギーにすぎないと考え、仮に議会を使うとしても、宣伝の場くらいにしか考えていなかった。しかし、つまり議会で多数派を取って政治革命、その後社会の構造を変える社会革命をし、最後に人間の意識の問題である文化革命、とは言っていないが基本的にこの考え方と同じである。 国家に集中した機能を、地方自治体をはじめとして、学校、職場、ありとあらゆるところに民主主義を拡げていく、そういう政治文化の延長上に国家イメージの変化が生ずるのではないかと思う。じゃあ子供会の話し合いには出席するけど、投票に行かないのか、というとそうでもない。今の国家の制度はいきなりなくすことは出来ないから、それも残して、多層的な社会にする。 そうなると、教科書問題は、どこの教科書が悪い、自虐的、というような話ではなく、学校単位で先生たちの意見を聞け、沖縄の問題は「県民の意向で決めろ」という方向になる。 そんなことをしたら何も決まらないぞ、といわれそうだ。確かにそうだ。統一的な国家意思形成は相当弱まるだろう。国民を超越した国家意思の形成は困難だ。おそらく自衛隊派遣なんて決めるまでに1000年かかるだろう。 逆に、大きな単位の民主主義も作っていく。地域的な国家連合や、さらに大きな連合体まで、身の回りの民主主義から、連続的に、フラクタルに民主主義的な構造を構築していく。 地域、市町村、都道府県、もう少し大きい広域行政・・・と続く中に国家もある、だから国家を否定するわけではないが、そういう集団の一つにしていくのだ。 なお、グラムシのほかに、ネグリという人(有名な「帝国」を書いた人)の「マルチチュード」という本の中にちょっと近い観念を見つけた。ただ、本を見る限りではグラムシとの関連を見つけ出すことは出来なかった。私が考えていることとは違うのかもしれないのでこれからゆっくり勉強することにする。民主主義の観念は私と同じ、というか当たり前か。 以前メッセージをやり取りしたことのある方のサイトだが具体的にはこういうことを積み重ねていくべきだ。やり取りの過程で、問題意識を相当共有している方であることが分かった。
by luxemburg
| 2005-12-09 23:56
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